1.書店での立場
「詩人は食えない」と言われるが、どうして食えないのだろうか?
その答えは簡単、詩集が売れないからである。少し想像してもらいたい。
あなたの近所に詩集を扱っている書店があるだろうか?
おそらく相当大きな書店でなければ詩のコーナーは無いだろう。全国の書店数をかりに2万店とする。その中で詩のコーナーを設置している店は、およそ5〜10分の1と言われている。それも込み入った奥の方の書棚。これでは詩集が読者の目に入る機会が少ない。
悲しいことだが、これはしょうがないこと。なにしろ「売れない」のである。
商品(本)を売って利益を得る店(本屋)が売れる商品を置きたがるのは当たり前。売れないものはどんどん返本されるか、初めから入荷しない。
「そんなことはない、私は詩が好きだ。中也だって小野十三郎だってラフォルグだって読んでいるぞ」
という人もいるかもしれない。その人に聞こう。
「あなたは1ヶ月間で何冊の(現代の)詩集を買いましたか?」
いくら詩が好きな人といっても月に五冊も六冊も買わないのである。しかも難解といわれる現代詩、売り上げは伸びない。よって薄利多売ではなく、少ない商品数でいかに利益を得るかという方向にむかう。本の定価は高くなる。それによって、より買いにくくなっていく。買いにくい商品は置かない。それが書店での詩集の現状だ。
2.業界での立場
小説を発表する場は数え切れないほどある。
「オール読物」「文学界」「群像」「すばる」「小説現代」「SFマガジン」「ミステリマガジン」「小説推理」「鳩よ!」「週刊小説」などなど。これはほとんどの文芸誌がそれ単体では赤字でありながら、自社媒体としての活用法を持っているからである(文芸誌についてはいずれ述べる)。いわゆる流行作家から書き下ろしで一冊分の原稿をもらうことは不可能に近い、それで「うちの文芸誌で連載しませんか。もちろん原稿料もありますし、連載終了後には一冊にまとめますから」という感じでもちかける。作家としても悪くない話だ。
これに比べて、詩の発表の場は少ない。「現代詩手帖」「ウエイストランド」「詩学」「ユリイカ」。
これでは詩人は活躍のしようがない。原稿料の規定も曖昧で、原稿用紙枚数1枚いくらというところもあるし、1作でいくらというところもある。
詩の連載が好評のまま終了したとしてもそれが刊行されることはまれだ。
3.魚武の功績
三代目魚武濱田成夫という詩人がいる。著書も多く、「ヤングサンデー」というマンガ誌で連載もしていたから知っている人も多いだろう。彼は「俺は詩だけで食っている」と言っていた。その「詩」が印税と原稿料のみを指しているのかは分からないが、とにかく「詩関係」で食っていることは間違いないだろう。
魚武の偉いところは、新しい詩の形を作ったことでもなく、ましてや若者に支持されていることでもない。「ヤングサンデー」という発行部数が30万部を超える雑誌で詩を連載したことなのだ。芸術性の高い詩を求めるあまり100冊しか売れない本を自費で作るよりもずっと社会的である。「芸術化気取りの詩人、もしくは評論家連中」にガツンと食らわせてやった、その行為が偉いのである。
4.ある受賞作
詩の賞はマイナーであり、詩の芥川賞と呼ばれる「H詩賞」も一般にはあまり知られていない。他にも有名詩人の名がついた賞が数多く存在する。「高見順賞」「中原中也賞」「小野十三郎賞」などだが、これらの賞は一冊の詩集に対して与えられる。
ある詩集の初版部数は350冊だった。定価は2000円ほど。詩集の刷り部数というのは300にするか500にするかというラインで悩む。「ばーんと1万冊刷ってしまおう」なんて発想自体ありえないのである。
その詩集がある賞を受賞した。誰でも知っている詩人の名がついた賞だ。すぐさま増刷が決定した。
増刷数はなんと350冊。
げんなりする部数である。著者が一番驚いたに違いない。
小説で大きな賞を受賞すれば部数は万単位で膨れ上がる。一回の増刷でも5000冊は固いだろう。それが詩では350。この差が詩集の現状を物語っている。
そうはいっても、茨木のり子著『倚りかからず』がベストセラーになり、童話屋刊の『ポケット詩集』も売れている。
「詩は人間の最後の武器である」という言葉がある。
職業詩人を目指して書き続けるのも悪くない。あとは詩で食べることはすっぱり諦めて純粋に創作自体を目的にしたり…。まあ、なかなか厳しいのだけれども。
次回は「作家の裏側」に触れる。これ、やばいっす。
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